安積 艮斎 あさか ごんさい
   

南枝入夢得真才
閫外何爲混驥駘
闔族精忠皆殉國
十年籌略總成灰
丹心長照青天日
碧血空留古墓苔
遺恨千秋消不尽
滿川夜雨闘風雷
南枝(=楠木正成)夢に入りて 真に才を得る
閫外(=都の外→湊川)何の為に 驥(=優れた馬)と駘(=のろい馬)を混ぜる
(なん)ぞ族の精忠(=真心からの忠義)をもって 皆 殉国闔(せざ)
十年の籌略(=策略) 総じて灰と成す
丹心(=真心)長く照す 青天の日
碧血(=忠誠心)空しく留めん 古墓の苔
遺恨千秋 消え尽きず
川を満たす夜雨 風雷と闘う
湊川の戦い
南北朝時代の建武3年5月25日(新暦 1336年7月4日)に、摂津国湊川(現 兵庫県神戸市中央区・兵庫区)で、九州から東上して来た足利尊氏・足利直義兄弟らの軍と、これを迎え撃った後醍醐天皇方の楠木正成・新田義貞の軍との間で行われた合戦。

楠木 正成
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将で、鎌倉幕府からは悪党と呼ばれた。建武の新政の立役者として足利尊氏らと共に活躍。尊氏の反抗後は新政側の軍の一翼を担い、湊川の戦いで足利尊氏の軍に破れて自害した。
明治以降は「大楠公」と称され、1880年には正一位を追贈された。
131.7p×54.6p

寛政3年3月2日(新暦1791年4月4日)生〜万延元年(1860)歿 
 通称は祐助、名は重信または信、字は子順または恩順。通称は祐助、別号は見山樓。佐藤一斎の学僕となり、ついで林述斎の門に入り、やがて神田駿河台の小栗邸に私塾「見山楼」を開いた。二本松藩校教授となり、晩年昌平黌教授に登用された。
 「艮斎信」の下に、白文の「安積信印」、朱文の「恩順」の落款印が押されている。

推奨サイト
http://tozenzi.cside.com/gonsai.htm
http://fine-vn.com/cat_1/ent_33.html
http://www.shidou.fks.ed.jp/jiten/cgi-bin/jnbt.cgi?id=view&cd1=%B7%B4%BB%B3%BB%D4&cd2=%B0%C2%C0%D1%BA%B1%BA%D8
http://homepage2.nifty.com/kanbun/writers/asaka-gonsai.htm
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/search.php?cndbn=%88%C0%90%CF+%8D%AF%8D%D6


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